歩く

いい加減花粉症がつらい。いい加減と言っているけれど、花粉飛散量のピークはまだまだこれからのようで、リアル涙目である。先が思いやられる。

最近は毎日散歩している。アレルゲンを体に浴びながらではあるが。

僕はもともと歩くのが好きなのだが、なぜ好きかと言われると一番の理由としては自身の考えこむ性格に由来していると思う。

僕があれこれと思索しがちな性質であるのはこのブログが顕著に表していると思うが、考えることはその実そんなに優しくない。

「優しくない」。この言葉で何が言いたいのかというと、考えることは自身の知的欲求を満たしたり疑問に答えるヒントになったりするが、その過程で自分が傷つくのが避けられないということだ。

考えることは迷路である。特に生き方とか哲学的な問題になってくると、世間一般の論理、社会的な正義、自身のモットー、人の感情など諸要素が複雑に絡み合う。結果として僕たちは思考の迷路に迷い込む。抜け出すのも容易ではない。

「まあいいか」と捨て置ければ別に良いことなのだけど、それが簡単にできないのが人間の性ともいえる。それがわかっているから最初から考えない、所謂「思考停止」に陥る人も多いのかもしれないね。

そんな厳しさを内包する「考えること」と付き合っていくうえで、散歩というのは実に良い働きをしてくれる。

歩くことで、僕たちは身体を動かしその間に様々な風景を見ることができる。街を歩いていると、知らない道に出てしまうこともある。「ここにこんな道があったのか、この店は見たことがないぞ」とか「ここからはこんな風景なのか」そんな新たな出会いに直面することもある。その中で僕たちはその道を作り出した背景や風景の優しさに思いを馳せる。

要するに、歩く中で僕たちは常に違うものを見ることができるということだ。昨日と同じ道でも、そこを行き交う人は当然違う。天気だって異なるかもしれない。そんな新たな出会いの連続は僕たちに退屈を与えない。その新鮮さが思索しがちな僕の性格を救ってくれている。

思考の迷路に迷い込みそうな時でも、僕が歩く道で町の風景、そこに映る人の笑顔、綺麗な空、それを見ているとふっと心が軽くなるような気持ちになれる。「ここで迷路に挑む必要などないんじゃないかな」、そういう気持ちにさせてくれる。

それを繰り返すと思考の探求は出来ないのではないかと思われるかもしれないが、もともと考えがちなのだからその瞬間があるのは僕にとって必然なのだ。避けられないからこそ、どこかで救いが必要になる。歩くことは簡単に変えられない自身の性質に立ち向かう勇気を与えてくれるのだ。

僕は考える自分の厄介な性質を大事にしながらも、お気に入りの洋服を着て変わりゆく風景を愛でながら街に向かう、それでいいじゃないかと。それが僕だ。