「死」と向き合って

 先日大学の健康診断があったのだけれど、残念なことに血圧が基準値を上回ってしまい、再検査ということになってしまった。

自転車で坂道を全力で漕いで十分足らずでの検査だったので、さして心配はしていないがまた時間を割いて検査に向かわなくてはいけないのが面倒、これに尽きる。

検査センターは主に利用しているキャンパスからやや離れているので、そこまで移動するのも気が引ける要因であるしね。

高血圧の疑いが出てきて、不健康であるということ、ひいてはこれからの未来において「死」とどう向き合っていけばいいかということをふと考えた結果がこのエントリ。と言っても高血圧が怖いとか、そういう深刻な話ではない。

 

「深刻ではない」と前置きしておいてなんだが、僕に世間で言うところの「長生きする」という願望は一切ない。一切。

これには色々な理由がある。

まず第一に、僕は人に迷惑をかけるのが嫌いであるということ。

僕はJ.S.ミルという学者の「他人に迷惑をかけない範囲で人間の自由は保障される」という考え方が好きで、自分の行動の礎となっているところも大きい。

何に取り組むにしても周りに流され、宙に浮く凧のような主体性のない生き方を決して好まないゆえに、自分自身として自由な行動をしたいという思いが常にあるのだが、一方でその自由に誰かを巻き込みたくないという思いも人一倍強いと自負している。

世間で傍若無人にふるまっているような人は、自分の行動で誰かに不利益が生じるという観点が欠けていて、そういう振る舞いというのは傍から見ていても見苦しい。だからこそ自分はそうならない、視野を広くして見ず知らずの誰かの自由を妨害しない範囲で自分自身の自由を謳歌したいと考えている。

その一方で、その人を羨ましく思うところもあるのだが。誰かに迷惑をかけたくないという思いゆえに面倒事を背負い込んでしまうこともあるし、そもそもその考え自体世間体に縛られる僕自身を逆説的に表しているところもあるので、もう少しバランスを取っていかないといけないとは思っているのだが、それはまたの機会に。

随分と冗長に語ってしまった。結局のところ長く生きていくというのは、人によりかからなくては出来ないことである。

年を取ると肉体的、精神的に様々な障壁が生まれてくるであろう。

年老いて若年期の能力を失い、自分自身で制御できる範囲が狭くなっていくさまを痛感していくというのは大きな苦しみが伴うはずだ。

生きながらえた結果痴呆症になり、目の前が誰なのか、今自分がどこにいるのかもわからないまま、主体性を失いつつ人の手を煩わせて死への道を転がり落ちていくことに関して前向きにとらえることは難しい。加えて肉体的自由も制約されるのだ。自分の介護者も苦しい、今それを想像する僕も心苦しい。それならばその前に自分の人生を終えたいと思う。さすがに明日死ぬのとかは嫌だけれど。

自分の行為で迷惑をかけ、誰かの重荷になる、そして自分の自尊心も損なわれる。これが長生きを嫌う一つ目の理由。

二つ目に、今後の日本で高齢者への風当たりが強くなっていく懸念があるということ。

現在でもニュースになっている、年金支給開始年齢の引き上げ、それに付随する70歳雇用への動きなど、枚挙にいとまがない。

この調子だと僕たちの世代において年金が支給されるかどうかも怪しい。これから言われるがままに年金を納めていかないといけないのだが、自分たちがその年齢になった時にもらえないことがあるとすれば、なんという不公平だろうと思う。

自分たちの努力、行動が報われないこと。こんな悲しいことはない。正直昨今の動きを見ていると不安にならざるを得ない。

仮に年金がもらえないとして、その場合年金の分は年老いた自分自身の力で稼いでいかなくてはいけないのだ。全員にその力があるとはいえず、現実に抗えずに倒れていく人も出てくるだろう。当然僕も例外ではない。そんな未来の高齢者を救っていく政策を期待できるかというと、現在の政府を見ているとなかなか厳しいのが現状である。溜息出るよな。

ある意味僕ら世代は日本が生まれ変わる人柱的役割を担うのかもしれない。増えすぎた高齢者が衰えた自分の能力に直面しつつ、様々な難題と闘いながら自分自身の力で生活を強いられ、それに適応できない者が次々と倒れていく。高齢者から見れば暗黒郷だろうが、年齢層や人口数が整理されて社会保障など国単位で賄える方向に進んでいくという観点から見れば、未来の若者にとっては生きやすい社会になっていくのかもしれない。しかしながら、その未来を自分事として考えるならばなかなか前向きにはとらえられない。

 それならばその前に、生存競争からリタイアしたいというのが本音だ。

 

以上の二点が主な理由だろうか。これを読んだ人は悲観的になりすぎだと思うかもしれない。僕もそう思う。正直「死」への向き合い方の話から規模が大きくなりすぎている気はするし。

しかし一方では悲観のみならず、前向きに「早死に」したい思いもあるのだ。

率直に言って、僕は65歳手前くらいで生を終えたいという思いがある。

平均寿命は昔からずいぶん伸びて、80歳まで生きるのが当たり前になってきたが、そんなのは相対的観点でしかない。

「昔と比べて長生き」する人が増えただけで、僕には65歳も長生きだと思える。そもそも昔はその年齢は「長生き」だったのだし。その年齢でできるだけ自分の能力を保ちながら、急激な衰えなしに自身の生を全うできるならば本望だ。

結局のところ何が言いたいのかというと、「死」への向き合い方は人それぞれだということ。長いも短いも、その判断は当人にゆだねられているのだから誰がどうとか気にする必要はない。死生観を押し付ける必要も押し付けられる義務もない。だから僕は僕の基準で「長い」と思える65歳くらいまでは全力で生きたい。休みつつ、自分をいたわりつつ、頑張りたいことには頑張って。そのぐらいの歳に急に、糸が切れるように死ねれば最高だ。そんなものでいいと思う。

とは言え、自分の寿命は自分で制御できるものでもない。厳密に言えば、自分の手の届く範囲は限られている、運というものもあるし。

とりあえず65歳くらいまでは生きられるように努力するが、その先は望まない。

80歳を超えるのが普通なのだから、「長生き」するために身体をいたわるとかは極力考えない方向で。好きなように生活をする。ここらへん家族とかいれば変わるのかもしれないが。

 

最後に一つ。

人は後悔をする生き物だ。やるかやらないか、そんな二者択一の問題でも、どちらの選択にも後悔の可能性は残されている。自分の行動、思考を悔いる、そんな中で成長も後退もするのが人としての生の営みであるだろう。人は後悔からは逃れられない、そうであるならばできるだけそれを減らしたいと思うのが人の性だ。

僕は「人が死する瞬間」というのは、裏を返せば「人が最後に行う生の営みが映るとき」ともいえると思う。

誰かが死ぬとき、その人は最期の瞬間まで生きている。生きて、生きて、生き抜いて、それぞれの人生に幕を下ろす。それが人間の生きざまだろう。満足な死など幻想にすぎないのかもしれない、でも極力それに近いかたちを。自分の記憶、過ぎ去った多くの出来事の中で納得のいくものは多いほうがいい。

これからの未来、できるだけ多くの人が最期の瞬間、できるだけ少ない後悔で「最後の生の営み」を全うできる社会になっていくことを祈る。