コンプレックスの先に

僕は身長が高くない。166㎝しかなく、世間一般の男性としてはむしろ低い部類に入る。

昔はさほど低いほうではなかった。かといって高いほうでもなかったが、まあ普通ということ。

それが変わっていったのは中学二年ごろだと記憶している。

ちょうどその頃になると周りの同級生たちは成長期真っ盛りである。一年で10㎝以上身長を伸ばす人だって珍しくない。現に二年の初めに同じ身長だった友人が、修了式の四月には僕より10㎝以上高くなっていた。

その子に限らず、僕は中学校の三年間で多くの友人に身長を抜かされていった。

当時は多感な思春期の子供である。いくら野球漬けといったって、身体的特徴が心に与える傷は小さくない。まして身長というのはその野球の能力にも関わってくるもので、僕のショックは相当だった。

部活で身体を大きくした選手が能力を伸ばしていく中での焦燥感、加えて日常生活を送る中での性的劣等感。当時は冗談抜きに辛かったのを今でも覚えている。自分より背の高い女子とすれ違う時にはため息。

そんな苦しみは高校に入ってからも続く。

高校で当然のように硬式野球部に入部した僕であったが、部員は170㎝を優に超えている者ばかりだった。日本人男性の平均身長が170㎝くらいで、それに加えて野球部には身体能力に優れた者が集まる傾向があったから当然といえば当然なのだが。

僕の高校は男子校であったから女子の目を気にする必要がなかったのが唯一の救いであったが、ますます野球漬けの日々を送る僕にとってその身体的コンプレックスは容赦なくのしかかるわけで。

打球は飛ばない、遠くに投げられない。努力で補いきることのできない要素、越えられない壁を目の前にまざまざと見せつけられたような感じだ。

そして、僕とレギュラーポジションを争っていたのは当然僕より背の高い選手だった。

彼は僕より打撃能力に長けていて、肩も強かった。

僕のポジションはキャッチャーで、地肩の強さが要求される。当然必要な要素はそれだけでなかったが、上記のように能力的ハンデを背負う僕にとっては尋常ではなく厳しい戦いだった。心など何度折られたことか。日々の練習でその差をはっきりと見せつけられる。折れた心を修復する間もなく幾度となくボディーブローのように叩き込まれる衝撃に、僕はただ疲弊するばかりだった。

そして、当時の僕は野球漬けだった。無趣味の人間。やることは野球しかないのだ。当時はそれが当たり前だと考えて疑うこともなかったが。

自分がやる唯一のことで、心を容赦なくへし折られる。そこに救いはなく、そして僕は野球を嫌いになった。

野球の話はまたの機会にするとして、そのように高校が終わるまで自分の身体的コンプレックスを感じ続けた。その後浪人を経て大学三年の今に至る。この辺は語ると非常に長くなることが危惧されるので割愛する。

ともかく、コンプレックスと闘った僕がたどり着いたのは、「それがどうした」というポジティブの境地なのである。

「確かにそうかもしれない、身長は低いけど俺にはほかにも色んなもんがある。遠方から訪ねてくれる友もいるしこれまでに得た考え深さも、他者を思いやる心も、客観的視点を忘れないようにしようとする姿勢とか、他にもいろいろあんの!もう俺はそのレベルにないのよ、よろしくな!」みたいな。最後はテキトーに流したが、コンプレックスを超える長所と、あとは開き直りみたいなもん。開き直り、その姿勢が一番大事だったりする。

たまに優れた容姿を持ちながら自分に自信を持てない人がいる。

「口では自信なさげにふるまっておきながら、本当は自分が好きなんだろう…」などとやっかみを受けたりするものだが、自信を持てないというその気持ちはなんとなく推測できる。一応言っておくが僕は外見において優れてはないし、そのような嫉妬の対象になったこともない。

分からないけど推測は出来る。何が言いたいかというと、他者からの承認は大事な要素であるが、それは最も重要なものではないということである。

誰かが「かわいい」「綺麗だ」こう言ってくれることは個々人の承認欲求を満たすものであり、それは否定できない事実である。しかし、その承認欲求以上に「根拠なき自分への自信」、これが一番大事なのだ。承認欲求自体は「根拠なき自分への自信」を支えるくらいのもので、直接の関係はないというのが僕の認識である。

「根拠なき自信」というのは、根拠がない以上どんなときにも成立するというのが肝である。つまりあらゆる状況で自分を救ってくれる最強の切り札。

「僕はすごい」「私はすごい」この一言で自分を救えるか、ここが重要なのだ。

「僕はすごいよ、だってすごいんだもん」

どんな状況でもこれを言える人は間違いなく強い。

「根拠なき自分への自信」は最強なのだ。

ここで自分自身を振り返ると、その境地までは到達できずとも前述の「ポジティブの境地」はそれに近いものではないかと推察している。

自分の中の長所や、取り巻く環境が支えとなって「すごいからすごい」に近いところまで行けているのではないか。まあこれも度を越えるとただのナルシストなのでその点に留意する必要はあるが。

ここで注意しておきたいのが、自分を前向きにとらえ続けた結果この境地にたどり着いたのではないということである。

僕は生来ネガティブシンキングな人間である。自分のコンプレックスを否応なく直視させられ、自分はダメだと傷ついて多くの涙を流してたどり着いたのがこの場所なのだ。

その動機は「もっと楽しく生きたい」という前向きの思いなのだが。

ただ今日の一日を楽しく生きていたい、そんな小さな思いが大きな流れになっていい人生を創り上げてくれるのだという前向きの願いが僕の原動力である。

だから今日も。コンプレックスの先に。