「マイ・スタイル」を日本語で表現したい

僕は日本語が好きだ。どのくらい好きかというと、以前「日本語が好き」というエントリを編集しようと思い、下書きをしたためていたくらいだ(その計画は頓挫したが)。

日本という国に関して言えば、不満は数えきれないほどある。先日友達と飲んでいた時、「本当に日本の文句をよく言うよね」と指摘されて、確かにその通りだと口をつぐんでしまったくらいだ。

しかしながら、旧くから形を変えつつも受け継がれてきたこの国の言語、一つの意味を表す熟語・表現が無数にあり、それぞれ会話の中で工夫させていくような、そんな特殊な日本語が途轍もなく好きなのだ。

僕は最近、会話あるいは文中でカタカナ語、外来語をできるだけ使わずに表現する、あるいはそれらを日本語で言い換えることにハマっている。

このブログの中でも極力感じやひらがなで表現することに努めているので、実際に僕の文を読んでもらえれば解ってもらえるかなとも思う。

そんな姿勢は僕の日本語への探求心から来るものが殆どであるが、逆張りという側面もある。

昨今「エモい」という表現が若者の間で流行り、彼らのツイート、あるいはインスタグラムの文章に散見されるようになってきた。「彼ら」って僕も若者なのにね。

「エモい」を代表例として挙げたが、当然長い日本の歴史の中で流行の渦の中にあった若者独特の表現は数知れない。

しかし僕は流行の表現を安易に使うことを僕は好まない。

もともと天邪鬼なのだ。僕は人と同じことや同調圧力、そして権威主義を嫌ってきた。そして思考停止が嫌いだ。流行っているから使う、みんながやっているから自分もやる、偉い人が言っているから正しい、そんな時勢への阿りが見えるものをどうしても好きになれない。

そしてそれはカタカナ語・外来語をできるだけ使いたがらないやり方にもつながる。

システム・エンジニアはその分野に明るくない門外漢とのメールでも当たり前のように専門用語を使うらしい。当然理解できるわけがないし、その殆どはカタカナ語である。

考えてみれば大学の講義でも寄付講座、つまり外部の専門家(銀行員、保険会社員など)が来てくれてその分野の話をしてくれることがあるが、彼らも例に漏れずカタカナ語が多い。わかりづらい。

前の二つは極端な例で、結局のところ何が言いたいのかというと社会の中でカタカナ語・外来語を当たり前のように使う今だからこそ、その表現を日本語で再解釈することに自分の中で意味を見出しているということ。

でもこれは普通の人から見たら変だろう。「カルチャー」や「スタイル」で表現できる、伝わるのだから問題はないと言われればそれまで。でも僕はそうは思わない。

「なんでそう思わないの?」

これは日本語への気持ちと、天邪鬼な自分の性格が複雑に絡み合っているので言語化するのが少し難しい。一言で言えば「なんか嫌だから」。これしか言えないごめんなさい。

 

「なんか嫌」な気持ちを抱えた僕は、語彙力の向上に努めつつ、日々Twitterや人との会話の中で日本語での表現を磨き上げることに躍起になっていたわけだが、今日洋服について考えていたらふと思った(僕は服が好きなんです)。

「マイ・スタイル」って日本語でなんて言えばよいのだろう?

ここでの「マイ・スタイル」は服装あるいは服への向き合い方に関することを想像してもらえればよい。

よく業界人とかが言う、「これが僕のマイ・スタイルです」みたいな。抽象的になるのが心苦しい。言葉で伝えかねているので許してほしい。

うーん。なんて言えばいいんだろうな。わかりかねているので考えてみよう。

「マイ・スタイル」というのは流行や時間の経過、そしてその人を取り巻く環境に左右されない、自分自身の生き方さえ示してしまうような永続的な「何か」かな、というのが今のところの僕の考えだ。

そう、つまりはその「何か」を一言で言い表せなくて苦心しているのです。

「軸」?なんかしっくりこない、もっとどっしりとしていて屈強な言葉の方が自分の抱く印象と合致するような。なんとなく「軸」にはそれがない。いい言葉ではあると思うけれど。

「礎」はどうだろう。これは何かの基礎、土台という意味だけれど。「マイ・スタイル」は土台の上に成り立っているものなのではないかと思っている。堅固な基礎があるからこそ、それ自体も揺らぐことはない。そんな感じ。よってこれも違うかな。屈強な印象はかなりしっくり来たが、定義としては少しズレるか。

「生き方」。これはスタイル=様式、型を再解釈するとかなり腹落ちするところではあるけれど、前述のように「マイ・スタイル」はそのような生き方を包括していて、時々滲み出るようなものだと思うので少し違う。あと「生き方」だとどことなく堅苦しい。ちょっと明け透けというか、有り体に言って風情に欠ける。もう少し奥ゆかしさがあってほしい。

……。僕はどこに向かっているのかな?

こうして思考の迷路に迷い込んだ自分自身を、文章という媒体を通して可視化、客観視してみると甚く滑稽なものだと思う。

たかだか「マイ・スタイル」、この言葉のためにいくつもの言葉を紡いで、文章を作り出しながら屈強がどう、風情がどう、ええい、ああでもないこうでもないと一人つぶやいているなんて。先に述べたけど、普通の人から見たら変だ。

でも、これが逆に良いんだよ。簡単に解られてたまるか。

「マイ・スタイル」を日本語で表現したい。今日の考え事。