花粉症
今回のエントリはただのやり場のない愚痴である。まあ他のエントリもそれに近いといわれればそれまでだが。そもそもこのブログの立ち位置としては、ツイッターの延長とも日記に近いものとも言える。つまりは無意味なことを延々と書き連ねるそのことに意味を見出しているということ。
僕は哲学的な思考が好きなので「無意味なことに意味を求める」とかそんな禅問答みたうな考え方がひどく好きである。ロマンチシズムも少し入っているかもしれない。
さて。何を語るかと言えば、もうタイトルの時点で出オチである。
「花粉症うぜー―――――!!!」
なに、なんなの?
ついこの前まで吹き荒れる強風と堪えがたい寒さで僕たちの心身を疲弊させていたと思ったらさ、二月末くらいからこれだよこれ。相変わらず風は強いから花粉は運ばれてくるし。
それにしてもなんだよこの変わり身の早さは。お前はさしずめ離婚を決意した瞬間の人妻かあるいは脈なしと判断した途端の男のLINEか。
ともかくこの情緒不安定な台風の如き日本の気候によって、みんなボロボロになっているのだ。今日本人がみんな苦労する時代になっているのは強ちこの気候が関係ないとは言えないね。少なくとも僕はそう思う。
春はあけぼの?夏は夜?秋は夕暮れ?冬はつとめて?そんなものくそくらえだ。
春は花粉症。鼻水かゆみにくしゃみ止まらず。
夏は高温。加えて多湿に塩垂れる身体。
秋は皆無。夏だか何だかわからないままに気が付くとそこは冬。
冬は極寒。寒さに心は沈み、熱いシャワーと暖房の利用で嵩むガス代・電気代。
一年中「苦」じゃねえか。「一切皆苦」とはかの釈迦もよく言ったもので、ともすればこの日本のためにある言葉なのではないかとさえ思えてしまう。そら出家したくなるな、うん。世がむなしく思えるのも少しは分かるよ。
上のようにつらつらと花粉症や日本の気候に対しての怒りを書き連ねてきたけど、その反面季節を愛する心だってあるからね俺には。
人の心には前を向くポジティブも悪い方向に延々と考えこむネガティブも共存している。だからこそ明日を前向きに生きるためにここで愚痴を吐き出してしまうのだ。
とりあえず花粉の飛び交う春をもう少し楽しく生きるために、僕はここで愚痴を吐き出し、お気に入りの服にサングラスとマスクの不審者ファッションで街を歩く。
コンプレックスの先に
僕は身長が高くない。166㎝しかなく、世間一般の男性としてはむしろ低い部類に入る。
昔はさほど低いほうではなかった。かといって高いほうでもなかったが、まあ普通ということ。
それが変わっていったのは中学二年ごろだと記憶している。
ちょうどその頃になると周りの同級生たちは成長期真っ盛りである。一年で10㎝以上身長を伸ばす人だって珍しくない。現に二年の初めに同じ身長だった友人が、修了式の四月には僕より10㎝以上高くなっていた。
その子に限らず、僕は中学校の三年間で多くの友人に身長を抜かされていった。
当時は多感な思春期の子供である。いくら野球漬けといったって、身体的特徴が心に与える傷は小さくない。まして身長というのはその野球の能力にも関わってくるもので、僕のショックは相当だった。
部活で身体を大きくした選手が能力を伸ばしていく中での焦燥感、加えて日常生活を送る中での性的劣等感。当時は冗談抜きに辛かったのを今でも覚えている。自分より背の高い女子とすれ違う時にはため息。
そんな苦しみは高校に入ってからも続く。
高校で当然のように硬式野球部に入部した僕であったが、部員は170㎝を優に超えている者ばかりだった。日本人男性の平均身長が170㎝くらいで、それに加えて野球部には身体能力に優れた者が集まる傾向があったから当然といえば当然なのだが。
僕の高校は男子校であったから女子の目を気にする必要がなかったのが唯一の救いであったが、ますます野球漬けの日々を送る僕にとってその身体的コンプレックスは容赦なくのしかかるわけで。
打球は飛ばない、遠くに投げられない。努力で補いきることのできない要素、越えられない壁を目の前にまざまざと見せつけられたような感じだ。
そして、僕とレギュラーポジションを争っていたのは当然僕より背の高い選手だった。
彼は僕より打撃能力に長けていて、肩も強かった。
僕のポジションはキャッチャーで、地肩の強さが要求される。当然必要な要素はそれだけでなかったが、上記のように能力的ハンデを背負う僕にとっては尋常ではなく厳しい戦いだった。心など何度折られたことか。日々の練習でその差をはっきりと見せつけられる。折れた心を修復する間もなく幾度となくボディーブローのように叩き込まれる衝撃に、僕はただ疲弊するばかりだった。
そして、当時の僕は野球漬けだった。無趣味の人間。やることは野球しかないのだ。当時はそれが当たり前だと考えて疑うこともなかったが。
自分がやる唯一のことで、心を容赦なくへし折られる。そこに救いはなく、そして僕は野球を嫌いになった。
野球の話はまたの機会にするとして、そのように高校が終わるまで自分の身体的コンプレックスを感じ続けた。その後浪人を経て大学三年の今に至る。この辺は語ると非常に長くなることが危惧されるので割愛する。
ともかく、コンプレックスと闘った僕がたどり着いたのは、「それがどうした」というポジティブの境地なのである。
「確かにそうかもしれない、身長は低いけど俺にはほかにも色んなもんがある。遠方から訪ねてくれる友もいるしこれまでに得た考え深さも、他者を思いやる心も、客観的視点を忘れないようにしようとする姿勢とか、他にもいろいろあんの!もう俺はそのレベルにないのよ、よろしくな!」みたいな。最後はテキトーに流したが、コンプレックスを超える長所と、あとは開き直りみたいなもん。開き直り、その姿勢が一番大事だったりする。
たまに優れた容姿を持ちながら自分に自信を持てない人がいる。
「口では自信なさげにふるまっておきながら、本当は自分が好きなんだろう…」などとやっかみを受けたりするものだが、自信を持てないというその気持ちはなんとなく推測できる。一応言っておくが僕は外見において優れてはないし、そのような嫉妬の対象になったこともない。
分からないけど推測は出来る。何が言いたいかというと、他者からの承認は大事な要素であるが、それは最も重要なものではないということである。
誰かが「かわいい」「綺麗だ」こう言ってくれることは個々人の承認欲求を満たすものであり、それは否定できない事実である。しかし、その承認欲求以上に「根拠なき自分への自信」、これが一番大事なのだ。承認欲求自体は「根拠なき自分への自信」を支えるくらいのもので、直接の関係はないというのが僕の認識である。
「根拠なき自信」というのは、根拠がない以上どんなときにも成立するというのが肝である。つまりあらゆる状況で自分を救ってくれる最強の切り札。
「僕はすごい」「私はすごい」この一言で自分を救えるか、ここが重要なのだ。
「僕はすごいよ、だってすごいんだもん」
どんな状況でもこれを言える人は間違いなく強い。
「根拠なき自分への自信」は最強なのだ。
ここで自分自身を振り返ると、その境地までは到達できずとも前述の「ポジティブの境地」はそれに近いものではないかと推察している。
自分の中の長所や、取り巻く環境が支えとなって「すごいからすごい」に近いところまで行けているのではないか。まあこれも度を越えるとただのナルシストなのでその点に留意する必要はあるが。
ここで注意しておきたいのが、自分を前向きにとらえ続けた結果この境地にたどり着いたのではないということである。
僕は生来ネガティブシンキングな人間である。自分のコンプレックスを否応なく直視させられ、自分はダメだと傷ついて多くの涙を流してたどり着いたのがこの場所なのだ。
その動機は「もっと楽しく生きたい」という前向きの思いなのだが。
ただ今日の一日を楽しく生きていたい、そんな小さな思いが大きな流れになっていい人生を創り上げてくれるのだという前向きの願いが僕の原動力である。
だから今日も。コンプレックスの先に。
恋愛と尊敬
僕は恋愛経験に乏しい。中学高校と野球に夢中だったこと、そしてそもそも高校は男子校であり加えて僕は隣市の高校に通っていたので近くに女性要素が全くなかったのも相まって女性と付き合ったことがないのだ。
ここまで環境のせいにしているような言い分であるが、一番は自分自身の行動力と度胸のなさだろう。それは分かっている。そこがしっかりしているならば仮に高校でうまくいかなくても、大学に入って彼女ができているはずであるし。
というわけでつらつらと自分自身の経験不足な現状を書き連ねてきた。
ここでタイトルの「恋愛と尊敬」についての方向にもっていこうとおもう。いや、女と付き合ったことがないやつが何言ってんだって、そのくらいこっちは分かってんだよ。伊達に一人やってねえからな。そんなことは百も承知で、机上の空論について書く。
一般に恋愛感情というのは、基本的には外見の魅力に左右されるものではないかと思っている。年を重ねて「結婚」という選択肢が入ると違うものなのかな、そこは分からない、まだ若いし。
ともかく、若者においては外見が占める重要度がほとんどではないかと思う、周りの話を聞いているとそうだ。
僕の場合、外見はさして重要ではないのかなと感じている。当然ながら綺麗な人のほうが不細工より好きであるし、街中で目を向けてしまうのはそういう人だよな、これは俺だけじゃないだろ。
しかし、ここ数年で思いを寄せた人について考えてみると、人間的に尊敬できる人が多かったと思う。
予備校時代(僕は一年浪人している)は理系の女の子が好きだった。
彼女は獣医学部を目指していて、とにかくよく勉強する子だった。そして集中力も並外れていた。自習用の部屋で学習する時、彼女と居合わせることも多かったがとにかく席から離れない。椅子に接着剤でも塗りたくられているんじゃないかってくらい。僕なんかは50分頑張って座っているのが限度で、その度に行きたくもないのにトイレに行ったり、予備校回りを散歩していたり。勉強しなさい。
だから彼女の存在はとても眩しかった。僕は文系であり分野は違うものの、とても刺激を受けた。彼女に何とか近づきたい、負けたくないという一心で勉強していたし、何とか第一志望に受かったのはその思いも大きかったのではないかなと今更ながら思う。
結局想いを遂げることは叶わなかったけど、そんな風にして憧れの存在に手を伸ばし続けた青い記憶が懐かしい予備校時代。
そして今。同年代の子に全然ときめかないのだ。
わかっている、同年代の子、大学の子にも可愛い子はたくさんいるしそれを僕が評するのもいささかお門違いという思いだってあるよ。
でも、何というか。可愛い子を見ても
「あ、可愛いね。」(完)
これになってしまうのだ、つまりは中身を知りたいと思えない。
むしろ年の離れた社会人の方に心惹かれる場面が多い。
愛読書の「源氏物語」でいう藤壺の宮。(藤壺の宮は作中トップクラスの美人だけど)
しっとりとして奥ゆかしい雰囲気のある人が好きなのだ。
ふと目をやった時に気品が漂うというか、知的さが垣間見えるような。
すっきりとした大人の女性は美しいと思うし、人としての性質も優れているのだろうと感じてしまう。
環境が人を作り、年月が人を育てる。
自分を取り巻く環境の数も、歩んできた年月も。
それが並の若者とは違う大人の女性は、困難を乗り越えてきた強さを持っている。
人の内面というのは外に滲み出るもの。そんな気強さを持った彼女らが美しくない訳がないのである。
おそらく僕の恋愛は一度負けてから始まる。この人には敵わない、そう思った後に「できるだけ近づきたい、彼女に対して恥じることのない自分でいたい」そういう思いで努力していくのが僕なんだと思う。
プライドだけは人一倍高いので、他人がどう思うとかは抜きに「負け」を感じられないことが多いのが僕の恋愛下手な一面かもしれない。しかし、年上の美しい大人の女性の前では「負け」しかない。早く負けたい。心からそう思う。
蛇足ながら最後に結婚観について。僕は今のところ結婚願望はない。自分のお金は自分のために使いたいし、これからの時代子供たちが生きづらくなってくると予想しているから。
子供のことが頭をよぎる結婚は自分にとっては現実的ではないと思っている。その反面自分の性質を顧みて恋愛よりも結婚向きなのではないかと思ってもいるが。はあなんだこのムリゲーは。
そんな僕であるが万に一つ結婚するならば「この人のためなら死んでもいい」という人しかありえないなと。自分でも笑ってしまう。
僕は自分のことをリアリストだと思っているが、その反面途方もないロマンチストでもあると自覚している。この考えはロマンチシズムそのものである。
しかし冷静に結婚について考えてみるとその思いに帰結する。
そうなれないならば一人で生きていくしかないなと。
極端にプライドが高く、自己愛に満ちている自分自身が結婚するならば、そう思える相手じゃないとお互いに不幸になるであろうということをわかっているのだ。
しかしそんな相手に出会えることは奇跡に等しい。だから僕はきっと結婚は出来ないのだろう。恋愛もできるかどうかも怪しいが。
芸能人という花形
芸能人。テレビの向こうの住人、ディスプレイの向こうの輝き、住む世界の異なる人々。
僕たちは子供の頃から「昨日のドラマの誰々がかわいかった」「コンサートの誰々めちゃくちゃ格好良かった」そんな会話を繰り返すことに慣れ、今ではインスタグラムやTwitterで彼ら彼女らの姿に癒されている。
芸能人は我々一般人にとっての花形であることは紛れもない事実である。そして彼ら彼女らには当然ながらその資格がある。その資格は誰にでも掴めるものではない。
他を凌駕する圧倒的な容姿、天賦の才、類まれな運の強さ。比類のないものを携えた彼らは今日も僕たちに生きる原動力を与えてくれるわけであるが、素晴らしいものを持っている彼らにも当然ながら多くの難題が立ちはだかる。
現代社会にインターネットは不可欠である。また、全盛期ほどの勢いはないものの紙媒体もなお残っている。加えて現代の「許さない社会」。
彼らは不用意な発言をすれば「ネットの玩具」にされ(これは我々一般人にも当てはまることではある)、プライベートは監視される。
男女交際をすれば騒がれ、不倫をすれば見ず知らずの他人からも容赦ないバッシング。
芸能人はこれが普通と思われているが、本当にそうなのかな。いや別に不倫を擁護しているわけじゃないよ、そりゃあ良くないことだしね。ただそれを無関係の我々が水を得た魚のごとくぶっ叩くのは違うんじゃない、という話。
芸能人と一般人、住む世界は違えど同じ人間。一個人として尊重されるべき存在。
だからこそ昨今の流れにはいささか疑問であるし、その中でひとかどのプロフェッショナルとして僕たちにエンターテインメントを提供し続ける彼ら彼女らに僕は賛辞を惜しまない。
僕たち人間は優れたものを羨む気持ちを捨て去ることができない。誰しも無意識に高みを目指すものであり、自分がそうなれないという焦燥感、無力感は計り知れないものであり、それらは知らず知らずのうちに人に攻撃性を与えかねない。僕もよくわかる。
高校時代野球をやっていた僕は控え選手だった。自分でこれ以上ないほどの鍛錬を積んでもレギュラーの選手との実力差は歴然。努力が報われるわけではない世界を知った僕は攻撃的になり、彼とも軋轢が生まれた。
今だってそうだ。自分より身長の高い人が羨ましい。裕福な人が妬ましい。そんな思いは当然ある。あるけれど。
人の行動を一面的に見るべきではない。僕が常日頃から心がけていること。
優れたものを羨み、自分と同じところまで引きずり降ろそうとする醜悪な心。その裏側には自分がなれないものへの憧れ、高みにいる人たちへの尊敬、そんな心も確かにある、そう思っている。
「弱い奴の気持ちもわかってくれ」よく目にする言葉ではないか。醜悪な心が表に出て、品性下劣な行為に至ってしまうその人達の気持ちもわかりたい。わからなくてもわかろうとしたいと思っている。そのうえで良くないことは良くないと主張していたいのだ。こうして文に起こしてみると難しいことをやりたがっていると思うのだけど。それでも色々な視点から見てみたい。
話を戻そう。芸能人に対する僕たちの態度には、彼ら彼女らへの敬愛、嫉妬、憧れ、様々な感情が見え隠れする。だからこそ日常で彼らを讃える一方、目も当てられないような行動に走ったりする。人間は感情の動物であり、感情とは厄介なものなのだ。
しかしながら、そんな中でも芸能人は常にその輝きを絶やすことなく僕たちに見せてくれる。
普段生きている僕たちが無意識のうちに表に出してしまう怒り、悲しみ。目にしたくないもの。
そういったマイナスのものを押し隠してひたすらに光を当て続ける。きっとその裏側には数々の努力があるだろう。多くの羨望を集める彼ら彼女らにも苦しみはきっとあるのだ。
「ファンの方々のおかげで」彼ら彼女らの口からよく聞くフレーズである。紛れもない本心かもしれない。でもそうじゃないかもしれない。
理解に苦しむような行動をしてしまうファンだっているだろう。マスコミに追われ日常の生活に制約がかけられてしまうことだってあるだろう。許せない思いだってあるだろう。
彼ら彼女らはそんな数々の感情をぎゅっと心の内側に押し込み、満面の笑みでそのフレーズを口にする。僕はそのフレーズの裏側にある抑えられた思いを想像すると、ひどく心がざわめく。芸能人の方々に感服せざるを得ない。
「芸能人」とは僕たちが創り出した虚像なのかもしれない。僕たちの期待に沿って出来上がったまやかしなのかもしれない。しかしその虚像で救われるものもある。
その救いこそがエンターテインメントであり、彼ら彼女らがプロフェッショナルであることの証明になるのだ。
その実像がどうであれ、彼ら彼女らは今日もテレビの向こうで、ディスプレイの向こうで異次元の輝きを放つ。
「とても頑張ってること 羨むんではなく敬いたい」
僕の好きなバンド、Every Little Thingの「ハイファイ メッセージ」の一節である。
僕の中にはどっちもある。でも、敬いのほうがはるかに大きい。
その輝きに魅せられる僕はそれに手を伸ばしながら、今日もどうにか生きていける。