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世の中には完璧主義者がいる。自分がやることなすことに非の打ちどころを許さない。何でもかんでも100%の出来でないと満足できない、そういう人だ。

そしてこれは紛れもなく過去の僕そのものである。

厳格な父のもとで育った僕であったが、小学三年で野球を始めたのが人生において最初の分岐点であったと思う。ましてや父は学生時代に甲子園を目指して一心不乱に白球を追いかける青春時代を送っていたこともあり、僕に指導する時の熱の入れようはとんでもないものだった。学生時代の僕たちの関係は親子と呼べるほど温かいものではなく、さながら師弟であった。師匠と弟子、そこには厳密な主従関係が成立しており、僕は父になかなか反抗できなかった。たとえ反抗したとしても、最後には僕が折れるのがオチだった、たとえ何があっても。

そんな関係性の中で野球をやっていた僕にとって、失敗は何よりも恐ろしいものだった。

不振が続くと「なぜ打てない?練習が足らないからだ」とバットを振る回数を増やされる。そうやって小学校三年から高校三年までの十年間で僕がバットを振る回数は年ごとに増えていった。正直生き地獄だった。最後のほうは練習が嫌で身が入らない上に結果も出ないので、結果が伴わないままに練習量だけが増えていく阿鼻叫喚の日々だったのが今でも鮮明に思い起こされる。

まあそんなだから僕は常に完璧を目指さざるを得なかった。打席に立てば4打数4安打を目指す。それが普通だと思っていた。

そして勉強。中学時代の序盤は学年でも上の中くらいの成績で、「これくらいなら上を目指さずに父の母校である工業高校に進学して甲子園を目指そう」などと思っていたのだが、運良く(?)中二の後半に成績が伸び始め、県内最上位校を目指すことになってしまった。

野球に取り組んでいたことで常に高みを目指す自分の土壌は出来上がっていたし、成績が伸びればみんなが喜んでくれた。だから迷いはなく、それが普通だと思っていた。

その高校に合格し、惰性で三年間を野球に費やし、浪人を経て大学進学を果たしたものの、その大学さえ「一年浪人する自分の学力に見合うのはここだろう」という考えから選んだ場所で、そこに確固たる僕の意思はなかった。入学後は自分の空虚さを認識することとなった。ある意味当然といえよう。

とにもかくにも完璧主義の自分を貫いて生きてきた僕は、己の空虚さに否応なく向き合うこととなり、そんな中でもその潔癖さを捨てられずに苦労してきた。

全てを完璧にこなすことのできない自分が許せない。

アルバイトでミスをする自分に落ち込み、信号をぎりぎりで渡れない自分に腹を立てる。野球ゲームでホームランを打たれるとスイッチを切ってゲーム機をベッドに投げつけ、布団を殴る。自炊しようと思っていた日につい外食をしてしまい、そのことが寝るまで気にかかる。

そんな僕に余裕などなかった。息苦しい生活、救いのない日々。それを作っているのは紛れもなく自分であり、自分を責めては悩む。元来ネガティブな性向も相まって、まさに負のスパイラルともいうべき日常だった。  

そんな日常が続いて、きっと限界を迎えたのだろう。

花粉症というのは、各人の体内に花粉を貯蔵するタンクのようなものがあり、それが限界容量に達すると発症するという仕組みらしい。そしてそのタンクの限界は各人によって違うのだという。

僕の場合、「完璧主義」のタンクの限界は21歳の冬だった。

その時は嫌なことがとにかく重なっていた時期だったと思う。

第一志望、第二志望のゼミの選考には落ち、自転車のバルブキャップは盗まれた。泥酔した帰りにスマートフォンの画面を割った。購入したトートバッグに解れがあった。イヤホンが急に故障した。

思い出すだけでもこれだけある。加えて季節は冬。公共料金は嵩むし、人肌恋しい季節なのに手を繋ぐ人さえ隣にはいない。もう限界だった。

自分に期待するのが嫌になってしまった。そして思った、「なんで俺は完璧を目指しているんだ?」

三割打てれば一流と言われる世界で4打数4安打、打率十割を目指す行為が途方もないものであるということを、最難関大学に合格できなければ命を失うわけではないということ。

当たり前のことが当たり前だと気づくのにこんなに時間を要してしまった。でもきっとそれが一番難しいのだろう。

人は思い込みに支配されてしまうことが多々ある。普通でないことを信じ込んだらそれが当たり前になる。だから宗教ビジネスなども横行するんだろう。

兎にも角にも、完璧主義の非現実性、ひいてはその虚しさに気づいた僕は「まあいっか」「大丈夫」をモットーとして、「完璧の手前」を目指すことに決めた。

「完璧の手前」というと100点満点のテストで90点くらいかな、と思う人も多いかもしれないがそんなに高望みはしていない。

完璧が100だとして、70くらいなら上出来だ。時には50だっていい、40でも許してやろうよ。30だったら少し考えるけどさ。

「許す」。最近の日本は本当に息苦しい。有名人の不倫はワイドショーでお茶の間に届けられ、何の関係のない一般人はそれに憤る。有名人は会見を開いて謝罪する。一般人の失言・失態は瞬く間にTwitter上で拡散され、何の悪気もないその行動は白日の下にさらされ、彼らの逃げ場所はなくなる。

僕たちはやり場のない怒りを自分の目についた失敗に向け、それを攻撃することで歪んだ自尊心を満たす、そこに許しはない。それが今の世界だ。なんか悲しくないか。

しかしそんな人が多くなっているのは、その人だけの問題ではない。人の幸福を喜べない人間だっているし、そんな気持ちの責任の所在はその人だけにあるものじゃない。もっと大きなものが原因だったりする。救われないからこそ、他者の失敗を糾弾することで何とか自分を保つ、ある種の自己防衛。そんな悲しみもわかっている。いや、わからなくてもわかりたいと思っているよ。

話が少し脱線したね。果たして僕が救われているのかそうじゃないのかはわからないが、とりあえずは自分の気持ちに折り合いを付けられた。そして自分を許すことができるようになった。

本当はこの「許す」関係の脱線は別記事で取り上げるべきだろう。若干無理やりな持って行き方だもんな。でもそんな自分を僕は許すよ。

許す気持ちに出会えたことで僕に余裕が生まれた。

僕は点滅信号を渡らない。時を刻む速度は決して変わらないが、人間生きていれば時間を早く感じたり遅く感じることのどちらもあると思う。だから生き急がなくていいんだ。

8時に起きたかったのに目を覚ましたら9時。まあいっか。別に誰かと約束していたわけじゃない。人に迷惑をかけたんじゃないんだから。それよりも一時間の遅れで済ませることができたことのほうが重要だ。

これってポジティブだよな?間違いないと思う。しかしそのポジティブさを創り出したのは紛れもなく元来のネガティブさである。例えるならば「負の数どうしを乗じると正の数になる」といったところか。無駄な過去なんかない、素直にそう思える。

完璧主義を脱した僕は落ち着いて、鷹揚に物事に対応できている。

僕は人の考え方、言うなればその人なりの「哲学」がその人の雰囲気を醸成し、「人」を作ってくれるのだとおもっている。

僕が紆余曲折を経た末に、こうやって物事に対してせせこましくならないように取り組むさまはどこかで自分を救ってくれるのだと信じている。その思い自体が僕の「哲学」なのだろう。

これから先いつかこの考えだって変わってしまうかもしれないが、とりあえず信じられるうちはこの「哲学」を貫いていこう。それでいいんだ。