40~70

世の中には完璧主義者がいる。自分がやることなすことに非の打ちどころを許さない。何でもかんでも100%の出来でないと満足できない、そういう人だ。

そしてこれは紛れもなく過去の僕そのものである。

厳格な父のもとで育った僕であったが、小学三年で野球を始めたのが人生において最初の分岐点であったと思う。ましてや父は学生時代に甲子園を目指して一心不乱に白球を追いかける青春時代を送っていたこともあり、僕に指導する時の熱の入れようはとんでもないものだった。学生時代の僕たちの関係は親子と呼べるほど温かいものではなく、さながら師弟であった。師匠と弟子、そこには厳密な主従関係が成立しており、僕は父になかなか反抗できなかった。たとえ反抗したとしても、最後には僕が折れるのがオチだった、たとえ何があっても。

そんな関係性の中で野球をやっていた僕にとって、失敗は何よりも恐ろしいものだった。

不振が続くと「なぜ打てない?練習が足らないからだ」とバットを振る回数を増やされる。そうやって小学校三年から高校三年までの十年間で僕がバットを振る回数は年ごとに増えていった。正直生き地獄だった。最後のほうは練習が嫌で身が入らない上に結果も出ないので、結果が伴わないままに練習量だけが増えていく阿鼻叫喚の日々だったのが今でも鮮明に思い起こされる。

まあそんなだから僕は常に完璧を目指さざるを得なかった。打席に立てば4打数4安打を目指す。それが普通だと思っていた。

そして勉強。中学時代の序盤は学年でも上の中くらいの成績で、「これくらいなら上を目指さずに父の母校である工業高校に進学して甲子園を目指そう」などと思っていたのだが、運良く(?)中二の後半に成績が伸び始め、県内最上位校を目指すことになってしまった。

野球に取り組んでいたことで常に高みを目指す自分の土壌は出来上がっていたし、成績が伸びればみんなが喜んでくれた。だから迷いはなく、それが普通だと思っていた。

その高校に合格し、惰性で三年間を野球に費やし、浪人を経て大学進学を果たしたものの、その大学さえ「一年浪人する自分の学力に見合うのはここだろう」という考えから選んだ場所で、そこに確固たる僕の意思はなかった。入学後は自分の空虚さを認識することとなった。ある意味当然といえよう。

とにもかくにも完璧主義の自分を貫いて生きてきた僕は、己の空虚さに否応なく向き合うこととなり、そんな中でもその潔癖さを捨てられずに苦労してきた。

全てを完璧にこなすことのできない自分が許せない。

アルバイトでミスをする自分に落ち込み、信号をぎりぎりで渡れない自分に腹を立てる。野球ゲームでホームランを打たれるとスイッチを切ってゲーム機をベッドに投げつけ、布団を殴る。自炊しようと思っていた日につい外食をしてしまい、そのことが寝るまで気にかかる。

そんな僕に余裕などなかった。息苦しい生活、救いのない日々。それを作っているのは紛れもなく自分であり、自分を責めては悩む。元来ネガティブな性向も相まって、まさに負のスパイラルともいうべき日常だった。  

そんな日常が続いて、きっと限界を迎えたのだろう。

花粉症というのは、各人の体内に花粉を貯蔵するタンクのようなものがあり、それが限界容量に達すると発症するという仕組みらしい。そしてそのタンクの限界は各人によって違うのだという。

僕の場合、「完璧主義」のタンクの限界は21歳の冬だった。

その時は嫌なことがとにかく重なっていた時期だったと思う。

第一志望、第二志望のゼミの選考には落ち、自転車のバルブキャップは盗まれた。泥酔した帰りにスマートフォンの画面を割った。購入したトートバッグに解れがあった。イヤホンが急に故障した。

思い出すだけでもこれだけある。加えて季節は冬。公共料金は嵩むし、人肌恋しい季節なのに手を繋ぐ人さえ隣にはいない。もう限界だった。

自分に期待するのが嫌になってしまった。そして思った、「なんで俺は完璧を目指しているんだ?」

三割打てれば一流と言われる世界で4打数4安打、打率十割を目指す行為が途方もないものであるということを、最難関大学に合格できなければ命を失うわけではないということ。

当たり前のことが当たり前だと気づくのにこんなに時間を要してしまった。でもきっとそれが一番難しいのだろう。

人は思い込みに支配されてしまうことが多々ある。普通でないことを信じ込んだらそれが当たり前になる。だから宗教ビジネスなども横行するんだろう。

兎にも角にも、完璧主義の非現実性、ひいてはその虚しさに気づいた僕は「まあいっか」「大丈夫」をモットーとして、「完璧の手前」を目指すことに決めた。

「完璧の手前」というと100点満点のテストで90点くらいかな、と思う人も多いかもしれないがそんなに高望みはしていない。

完璧が100だとして、70くらいなら上出来だ。時には50だっていい、40でも許してやろうよ。30だったら少し考えるけどさ。

「許す」。最近の日本は本当に息苦しい。有名人の不倫はワイドショーでお茶の間に届けられ、何の関係のない一般人はそれに憤る。有名人は会見を開いて謝罪する。一般人の失言・失態は瞬く間にTwitter上で拡散され、何の悪気もないその行動は白日の下にさらされ、彼らの逃げ場所はなくなる。

僕たちはやり場のない怒りを自分の目についた失敗に向け、それを攻撃することで歪んだ自尊心を満たす、そこに許しはない。それが今の世界だ。なんか悲しくないか。

しかしそんな人が多くなっているのは、その人だけの問題ではない。人の幸福を喜べない人間だっているし、そんな気持ちの責任の所在はその人だけにあるものじゃない。もっと大きなものが原因だったりする。救われないからこそ、他者の失敗を糾弾することで何とか自分を保つ、ある種の自己防衛。そんな悲しみもわかっている。いや、わからなくてもわかりたいと思っているよ。

話が少し脱線したね。果たして僕が救われているのかそうじゃないのかはわからないが、とりあえずは自分の気持ちに折り合いを付けられた。そして自分を許すことができるようになった。

本当はこの「許す」関係の脱線は別記事で取り上げるべきだろう。若干無理やりな持って行き方だもんな。でもそんな自分を僕は許すよ。

許す気持ちに出会えたことで僕に余裕が生まれた。

僕は点滅信号を渡らない。時を刻む速度は決して変わらないが、人間生きていれば時間を早く感じたり遅く感じることのどちらもあると思う。だから生き急がなくていいんだ。

8時に起きたかったのに目を覚ましたら9時。まあいっか。別に誰かと約束していたわけじゃない。人に迷惑をかけたんじゃないんだから。それよりも一時間の遅れで済ませることができたことのほうが重要だ。

これってポジティブだよな?間違いないと思う。しかしそのポジティブさを創り出したのは紛れもなく元来のネガティブさである。例えるならば「負の数どうしを乗じると正の数になる」といったところか。無駄な過去なんかない、素直にそう思える。

完璧主義を脱した僕は落ち着いて、鷹揚に物事に対応できている。

僕は人の考え方、言うなればその人なりの「哲学」がその人の雰囲気を醸成し、「人」を作ってくれるのだとおもっている。

僕が紆余曲折を経た末に、こうやって物事に対してせせこましくならないように取り組むさまはどこかで自分を救ってくれるのだと信じている。その思い自体が僕の「哲学」なのだろう。

これから先いつかこの考えだって変わってしまうかもしれないが、とりあえず信じられるうちはこの「哲学」を貫いていこう。それでいいんだ。

地に足を付けて

帰省で忙しく、実に一週間ぶりの更新となってしまった。まあいっか。なっ。

そんなもん。ここに義務感なんて必要ないんだし、だれに怒られるわけでもないのでね。

はい、というわけで早速本題。最近酒の飲み方について考える機会があった。

ちょっとツイート乗っけようと思ったけど見つかんねーな。まあ要は「アルコールを道具として、どこかにトリップするための手段として使っちゃうような奴がアル中になんのよ」みたいな内容のツイートを見た。

いやー、痛いところ突かれた気がしたよね。というのも僕の酒の飲み方ってまさにそれで、家にいる時は特にその傾向が顕著であって。自分自身のテンションをハイにしようとして飲んでるみたいな、結構タイムリーかもしれないけどある意味「ドラッグ」みたいな使い方をしていたわけだ。酒とドラッグがイコールになった時に人はアル中になるのかもしれない、本当に紙一重の場所にいたわけだ。

そんな自分を顧みて、これを思い出した。

 

to-river.hatenablog.jp

 そう、まさに僕は酒の力で「幻」を見ていたんだよね。

 

これまでの僕の逃げ場は酒だった。僕はアルコールを体に充填して、つかの間の快楽を楽しんでいた。脳に刺激を与え、ハイになることで騒ぐ。人生について思索して泣く。いや人生についての思索はどうかと思う。思うよ俺も。ここで言いたいのはそこには確かに「幻」があって何とか生きていく力を得ていたということ。

幻 - to-river’s blog

 自分のブログからの引用ってなんだか気恥ずかしさもあるな。まあここでも言及しているように僕はアルコールによる束の間の快楽に身を委ね「幻」を見て、生きる力を得ていた。

しかし当然そこに満足しているはずはなく、もっと言えば空虚さえ感じていた。件のツイートを見てそれに気づいてしまったのだ。

そして冷静になって考えてみた、『果たして俺に「幻」は必要なんだろうか?』

自分をゆっくり回顧してみると、意外とそんなことはないんじゃないだろうかと思えた。

青空の素晴らしさ、日常に転がる幸せのカタチが生み出す尊さを理解して以来僕の生活は充実していた。当然人間であるから、現状に100%の満足はしない。隣の芝生は青く見えるし、常に上を見る、それが性だろう。しかしながら、別に絶望はしていない。隣の芝生の青さにため息をつくことはあっても、自分の足元にある芝の色に憎しみを抱くなんてことはないのだ。だからその現実を受け入れずに逃げる必要もなかった。

僕は自分の目に映る景色から目を背けることはない。一見セピア色に見える風景でも、目を凝らして見れば青空に出会えることを知っている。困難ばかりの現状でもその後ろに小さな幸せが潜んでいることは分かる。そしてそれが僕にとっての救いだ。「幻」は不要だ。

 

結論としては本気で飲酒をやめようか考えているということ。そして仮にそうなったとして、その代わりに身を委ねる「幻」がやはり必要になるのではないか、そして女性関係、人間関係に充足していない自分の状況を鑑みてアイドルにハマる恐れがある。こういうことである。

幻 - to-river’s blog

 このエントリで僕は飲酒をやめることを考え、同時に自分がアイドルにハマることを危惧していた。

というのも、僕は実際のところ凝り性なのだ。いったんハマるとのめり込む。

現実において女性との接点が少ない僕に対して、何人かの友人は風俗に行くことを薦めてきた。あまつさえ代金を負担すると言ってきた人もいた。

しかし僕はそれを固辞してきたわけだが、理由は簡単で、のめり込む自分が容易に想像できたから。

「幻」に魅せられた僕が「オキニ」を探して風俗店に通う光景が自分の中で幾度となく再生できたので、きっと駄目だろうと本能的に思った。実際経験していないけどたぶん当たっていると思う。

そしてアイドルも一緒だ。きっとのめりこむと思う。思っていた。

でもあの後、何かハマれるかと思ってアイドルのライブ映像をYouTubeで再生したんだけど、僕はこの会場の中に入ることは出来ないと思った。ファンの一員としてサイリウムを振ることは無理だと本能的に悟ったのだ。

一応言っておくが、僕は「幻」の存在を肯定的に捉えているし、それを見せることを生業とする芸能人やアイドルを心の底から尊敬している。

 

to-river.hatenablog.jp

 「幻」に救われて何とか生きている人がいるのもわかる。「幻」に救われない人がいるのだって知っている。

しかし僕の場合は救われるとか救われるのではなく、必要ないということなのだろうと。本能的な拒絶の正体はそれだろうな。

さあ、酒とアイドルの二部構成と相成りましたが結局のところ何が言いたいかというところで、タイトルに帰結する。

「地に足を付けて」。ここまで「幻」は必要ないとかぬかしてきたが、これちょっと強がり入ってるわ。少し訂正。すがる必要はない。これでいいと思う。

人間の感情に浮き沈みはあるから、これから先落ち込んだ時にふと「幻」を覗き込むことはあると思う。それが酒なのかアイドルなのかはたまた風俗嬢なのかはわからないけれど。でも、それにすがって生きていくことはないと思う。要は、それが常に傍にないと生きられない、という状態にはないということ。

僕の人生において一時の休憩地点として「幻」はあるかもしれないが、肌身離さず持ち歩くほどのものにはなりえない。

僕は「幻」という迷路の中から現実を斜に見るよりも、地に足を付けて現実という道から時々「幻」を眺めてみる。そんな生き方でいいかな。

 

歩く

いい加減花粉症がつらい。いい加減と言っているけれど、花粉飛散量のピークはまだまだこれからのようで、リアル涙目である。先が思いやられる。

最近は毎日散歩している。アレルゲンを体に浴びながらではあるが。

僕はもともと歩くのが好きなのだが、なぜ好きかと言われると一番の理由としては自身の考えこむ性格に由来していると思う。

僕があれこれと思索しがちな性質であるのはこのブログが顕著に表していると思うが、考えることはその実そんなに優しくない。

「優しくない」。この言葉で何が言いたいのかというと、考えることは自身の知的欲求を満たしたり疑問に答えるヒントになったりするが、その過程で自分が傷つくのが避けられないということだ。

考えることは迷路である。特に生き方とか哲学的な問題になってくると、世間一般の論理、社会的な正義、自身のモットー、人の感情など諸要素が複雑に絡み合う。結果として僕たちは思考の迷路に迷い込む。抜け出すのも容易ではない。

「まあいいか」と捨て置ければ別に良いことなのだけど、それが簡単にできないのが人間の性ともいえる。それがわかっているから最初から考えない、所謂「思考停止」に陥る人も多いのかもしれないね。

そんな厳しさを内包する「考えること」と付き合っていくうえで、散歩というのは実に良い働きをしてくれる。

歩くことで、僕たちは身体を動かしその間に様々な風景を見ることができる。街を歩いていると、知らない道に出てしまうこともある。「ここにこんな道があったのか、この店は見たことがないぞ」とか「ここからはこんな風景なのか」そんな新たな出会いに直面することもある。その中で僕たちはその道を作り出した背景や風景の優しさに思いを馳せる。

要するに、歩く中で僕たちは常に違うものを見ることができるということだ。昨日と同じ道でも、そこを行き交う人は当然違う。天気だって異なるかもしれない。そんな新たな出会いの連続は僕たちに退屈を与えない。その新鮮さが思索しがちな僕の性格を救ってくれている。

思考の迷路に迷い込みそうな時でも、僕が歩く道で町の風景、そこに映る人の笑顔、綺麗な空、それを見ているとふっと心が軽くなるような気持ちになれる。「ここで迷路に挑む必要などないんじゃないかな」、そういう気持ちにさせてくれる。

それを繰り返すと思考の探求は出来ないのではないかと思われるかもしれないが、もともと考えがちなのだからその瞬間があるのは僕にとって必然なのだ。避けられないからこそ、どこかで救いが必要になる。歩くことは簡単に変えられない自身の性質に立ち向かう勇気を与えてくれるのだ。

僕は考える自分の厄介な性質を大事にしながらも、お気に入りの洋服を着て変わりゆく風景を愛でながら街に向かう、それでいいじゃないかと。それが僕だ。 

 昨日サボった分というわけではなく。暇なのでもう一本行きます。

今回は「夢」の話。といっても将来とか未来とかそういう規模のでかいボーイズ・ビー・アンビシャス的なアレではなく、僕らが布団の中で見るやつです。

夢において僕は様々な体験をするが、目を覚ましてしばらくするとその細部に関しては忘れてしまいがちになる。内容が鮮烈で衝撃的なもので、これは覚えておきたいなと思っていても残念なことに忘れてしまったり。

その一方でしっかりと覚えているものもあるが。僕が「夢」について想起して今すぐに思い浮かんだのはEvery Little Thing の夢。その夢の中で僕はライブに行って、「愛のカケラ」と「キヲク」を聴いた。ひどく感動して目を覚ますと泣いていた。マジで。それまでさほど愛着のなかった二曲はその夢以来お気に入りの曲になったのでとても印象に残っている。ちなみにELTのライブには行ったことがない。いつか行きたいな。

どうしてこう同じ夢でも差が出るのだろうな。覚えていたい気持ちにおいてはそのELTの夢に勝るものも多くあったはずなのでとても不思議に思う。かといって別に科学的に分析しようとかその類の好奇心はないので疑問に思う気持ちのみに留めておく。

昔の人は夢の中で想い人に出会えたならば、「その相手が自分のことを考えていたから夢に現れる」という考えを抱いていたらしい。びっくりするぐらいのプラス思考、自意識過剰もいいところではないか。(実際は当時の呪術的思考によるものらしいが)

僕が思うのは、夢は本人の無意識の願望や、深層心理で考えていることが強く反映されるということ。(これも科学的根拠があるのかないのかは別にいいです)

だから僕は夢の中で、骨抜きにされていた有名女優に出会ったり宝くじに当選するなどの非日常的な経験をするのだ。あの瞬間のカタルシスは凄い。だってそうじゃない?目の前にガッキーとか出てきちゃったら正気じゃいられないでしょ?6億円当たったら舞い上がるでしょ?そんな非日常的な興奮を束の間ではあるものの感じられるのが夢の魅力である。その分目が覚めた時の落胆も大きいが。

書いていて思ったのだが、非日常への没入という意味では芸能人や創作物への熱中とよく似ている。

 

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 ただ夢が違うのは、その没入する対象は僕たち自身が創り出すものであり、それは不確定要素でもあるということである。

考えていることに関連した夢を見ることもあるが、そのすべては思い通りにはいかないし意思にそぐわない夢を見たりする。友人が殺される夢とか。あれは最悪だ。

芸能人や創作物だと、僕たちの中である程度の期待が醸成されていて、その期待に当てはまっている人や物に惹かれていくことが多いのでこれは大きな違いである。ファンの期待に合わせて芸能人の振る舞いや創作物の作風が変わるなどもあるが、基本的には僕たちが選び取っていく側面が強いという認識だ。

確かに夢は不確定だし望み通りの夢を見られればそれは嬉しいけれど、決まっていないからこそ面白い。

予想もつかないものに出会えるなんてのはその最たる例ではないか。

夢は想像力と運によって決まるのです。いい夢見てえ!

ということで書いていたら時間が無くなってしまったので最後は雑に流しましたが夢のお話でした。今回のエントリが「夢」なのは、最近睡眠にはまっているから。そして「こんな夢見たい」と願えば意外と近いもの見られたりします。

早く寝て楽しい夢見たいわー、今日は夢の中でモテます。モテてきます。

昨日はブログを更新しなかった。

本当は毎日更新したいと思っていたのだが。一日一善的なアレね。

外出先にPCを持っていくのを忘れ、まあ家で書けばいいかなんて考えていたのだが、そんな中で友人からの飲みの誘い。金はなかったが断る理由もなく、15時からずっと飲んでいたので書けませんでした。ハイ。言い訳ですね。

とは言え別に義務でやっているわけでもないので、まあいいかと。100%に執着すると却ってダメになるというのが持論なので、テキトーにやって70%くらい、時には50%でもいいじゃないかと。そういう気持ちが大事。

というわけで気を取り直して更新していきましょう。

そんな気持ちの中の雨。今日は雨なのです。

昔は雨が好きだった。野球部時代は練習日ならば実戦形式の練習をせずに済む、試合ならば中止、そんな雨が嬉しくて仕方なかった。僕は野球が嫌いになっていたので。

雨への愛着にはほかにも理由があって、なんとなく落ち着いた気持ちになれるというのも大きかった。今ほどでないにしても当時から考え深さの片鱗は覗いていたのだろうか、静寂に響く雨音に耳を澄まして考え事をするのが好きだった。

きっとそんな風に雨の中で穏やかになっている自分への陶酔もあったかもしれない。困ったナルシシズムだ。ともかく、雨の日は淀んだ空模様とは裏腹に心が躍る、それが僕だった。

しかし、最近は雨が好きではない。

最近は生きることが楽しくて仕方がない。辛いことよりも楽しいことが頭に浮かぶ。

お気に入りの服を着て街に出かけること。馴染みの古着屋に行く、ドトールでコーヒーを飲みながら「源氏物語」を読む、ブログを書く、風景を目に焼き付けながらの散歩、いい飲み屋で酒を飲む。

今挙げたことの中にも考え事をする瞬間って結構あって、じゃあ昔と変わらないじゃないかなんて思われるかもしれないのだが。

確かに違うのは、前を向いているということ。 

 

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 日常の何気ない幸せに気付いた僕はそれを心から愛し、元気を失った時でもそれを頼りに歩いていくことができる。

今の僕はビルの隙間に見える青空のすばらしさに魅せられて日々を生きている。

晴れの日は心を躍らせてくれるものであり、雨の日は自分のネガティブさを増長させるものなのだ。そしてそれは日々を楽しく生きていくうえで困難な壁として立ちはだかる。

だから雨よりも晴れが好き。雨の中で物思いにふける自分自身に理想を投影する必要はなく、その理想にすがらなくても今の僕は生きていけるのだ。

ここまで理屈なんだかよくわからないものをこねくり回してくだくだしく書き連ねてきたが、結局のところ言いたいことはただ一つ。

早く夏になれ!照り付ける太陽と透き通るような青空の素晴らしいあの季節に連れて行ってくれ!

……。売れないCDの安っぽいキャッチコピーか。