地に足を付けて

帰省で忙しく、実に一週間ぶりの更新となってしまった。まあいっか。なっ。

そんなもん。ここに義務感なんて必要ないんだし、だれに怒られるわけでもないのでね。

はい、というわけで早速本題。最近酒の飲み方について考える機会があった。

ちょっとツイート乗っけようと思ったけど見つかんねーな。まあ要は「アルコールを道具として、どこかにトリップするための手段として使っちゃうような奴がアル中になんのよ」みたいな内容のツイートを見た。

いやー、痛いところ突かれた気がしたよね。というのも僕の酒の飲み方ってまさにそれで、家にいる時は特にその傾向が顕著であって。自分自身のテンションをハイにしようとして飲んでるみたいな、結構タイムリーかもしれないけどある意味「ドラッグ」みたいな使い方をしていたわけだ。酒とドラッグがイコールになった時に人はアル中になるのかもしれない、本当に紙一重の場所にいたわけだ。

そんな自分を顧みて、これを思い出した。

 

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 そう、まさに僕は酒の力で「幻」を見ていたんだよね。

 

これまでの僕の逃げ場は酒だった。僕はアルコールを体に充填して、つかの間の快楽を楽しんでいた。脳に刺激を与え、ハイになることで騒ぐ。人生について思索して泣く。いや人生についての思索はどうかと思う。思うよ俺も。ここで言いたいのはそこには確かに「幻」があって何とか生きていく力を得ていたということ。

幻 - to-river’s blog

 自分のブログからの引用ってなんだか気恥ずかしさもあるな。まあここでも言及しているように僕はアルコールによる束の間の快楽に身を委ね「幻」を見て、生きる力を得ていた。

しかし当然そこに満足しているはずはなく、もっと言えば空虚さえ感じていた。件のツイートを見てそれに気づいてしまったのだ。

そして冷静になって考えてみた、『果たして俺に「幻」は必要なんだろうか?』

自分をゆっくり回顧してみると、意外とそんなことはないんじゃないだろうかと思えた。

青空の素晴らしさ、日常に転がる幸せのカタチが生み出す尊さを理解して以来僕の生活は充実していた。当然人間であるから、現状に100%の満足はしない。隣の芝生は青く見えるし、常に上を見る、それが性だろう。しかしながら、別に絶望はしていない。隣の芝生の青さにため息をつくことはあっても、自分の足元にある芝の色に憎しみを抱くなんてことはないのだ。だからその現実を受け入れずに逃げる必要もなかった。

僕は自分の目に映る景色から目を背けることはない。一見セピア色に見える風景でも、目を凝らして見れば青空に出会えることを知っている。困難ばかりの現状でもその後ろに小さな幸せが潜んでいることは分かる。そしてそれが僕にとっての救いだ。「幻」は不要だ。

 

結論としては本気で飲酒をやめようか考えているということ。そして仮にそうなったとして、その代わりに身を委ねる「幻」がやはり必要になるのではないか、そして女性関係、人間関係に充足していない自分の状況を鑑みてアイドルにハマる恐れがある。こういうことである。

幻 - to-river’s blog

 このエントリで僕は飲酒をやめることを考え、同時に自分がアイドルにハマることを危惧していた。

というのも、僕は実際のところ凝り性なのだ。いったんハマるとのめり込む。

現実において女性との接点が少ない僕に対して、何人かの友人は風俗に行くことを薦めてきた。あまつさえ代金を負担すると言ってきた人もいた。

しかし僕はそれを固辞してきたわけだが、理由は簡単で、のめり込む自分が容易に想像できたから。

「幻」に魅せられた僕が「オキニ」を探して風俗店に通う光景が自分の中で幾度となく再生できたので、きっと駄目だろうと本能的に思った。実際経験していないけどたぶん当たっていると思う。

そしてアイドルも一緒だ。きっとのめりこむと思う。思っていた。

でもあの後、何かハマれるかと思ってアイドルのライブ映像をYouTubeで再生したんだけど、僕はこの会場の中に入ることは出来ないと思った。ファンの一員としてサイリウムを振ることは無理だと本能的に悟ったのだ。

一応言っておくが、僕は「幻」の存在を肯定的に捉えているし、それを見せることを生業とする芸能人やアイドルを心の底から尊敬している。

 

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 「幻」に救われて何とか生きている人がいるのもわかる。「幻」に救われない人がいるのだって知っている。

しかし僕の場合は救われるとか救われるのではなく、必要ないということなのだろうと。本能的な拒絶の正体はそれだろうな。

さあ、酒とアイドルの二部構成と相成りましたが結局のところ何が言いたいかというところで、タイトルに帰結する。

「地に足を付けて」。ここまで「幻」は必要ないとかぬかしてきたが、これちょっと強がり入ってるわ。少し訂正。すがる必要はない。これでいいと思う。

人間の感情に浮き沈みはあるから、これから先落ち込んだ時にふと「幻」を覗き込むことはあると思う。それが酒なのかアイドルなのかはたまた風俗嬢なのかはわからないけれど。でも、それにすがって生きていくことはないと思う。要は、それが常に傍にないと生きられない、という状態にはないということ。

僕の人生において一時の休憩地点として「幻」はあるかもしれないが、肌身離さず持ち歩くほどのものにはなりえない。

僕は「幻」という迷路の中から現実を斜に見るよりも、地に足を付けて現実という道から時々「幻」を眺めてみる。そんな生き方でいいかな。

 

歩く

いい加減花粉症がつらい。いい加減と言っているけれど、花粉飛散量のピークはまだまだこれからのようで、リアル涙目である。先が思いやられる。

最近は毎日散歩している。アレルゲンを体に浴びながらではあるが。

僕はもともと歩くのが好きなのだが、なぜ好きかと言われると一番の理由としては自身の考えこむ性格に由来していると思う。

僕があれこれと思索しがちな性質であるのはこのブログが顕著に表していると思うが、考えることはその実そんなに優しくない。

「優しくない」。この言葉で何が言いたいのかというと、考えることは自身の知的欲求を満たしたり疑問に答えるヒントになったりするが、その過程で自分が傷つくのが避けられないということだ。

考えることは迷路である。特に生き方とか哲学的な問題になってくると、世間一般の論理、社会的な正義、自身のモットー、人の感情など諸要素が複雑に絡み合う。結果として僕たちは思考の迷路に迷い込む。抜け出すのも容易ではない。

「まあいいか」と捨て置ければ別に良いことなのだけど、それが簡単にできないのが人間の性ともいえる。それがわかっているから最初から考えない、所謂「思考停止」に陥る人も多いのかもしれないね。

そんな厳しさを内包する「考えること」と付き合っていくうえで、散歩というのは実に良い働きをしてくれる。

歩くことで、僕たちは身体を動かしその間に様々な風景を見ることができる。街を歩いていると、知らない道に出てしまうこともある。「ここにこんな道があったのか、この店は見たことがないぞ」とか「ここからはこんな風景なのか」そんな新たな出会いに直面することもある。その中で僕たちはその道を作り出した背景や風景の優しさに思いを馳せる。

要するに、歩く中で僕たちは常に違うものを見ることができるということだ。昨日と同じ道でも、そこを行き交う人は当然違う。天気だって異なるかもしれない。そんな新たな出会いの連続は僕たちに退屈を与えない。その新鮮さが思索しがちな僕の性格を救ってくれている。

思考の迷路に迷い込みそうな時でも、僕が歩く道で町の風景、そこに映る人の笑顔、綺麗な空、それを見ているとふっと心が軽くなるような気持ちになれる。「ここで迷路に挑む必要などないんじゃないかな」、そういう気持ちにさせてくれる。

それを繰り返すと思考の探求は出来ないのではないかと思われるかもしれないが、もともと考えがちなのだからその瞬間があるのは僕にとって必然なのだ。避けられないからこそ、どこかで救いが必要になる。歩くことは簡単に変えられない自身の性質に立ち向かう勇気を与えてくれるのだ。

僕は考える自分の厄介な性質を大事にしながらも、お気に入りの洋服を着て変わりゆく風景を愛でながら街に向かう、それでいいじゃないかと。それが僕だ。 

 昨日サボった分というわけではなく。暇なのでもう一本行きます。

今回は「夢」の話。といっても将来とか未来とかそういう規模のでかいボーイズ・ビー・アンビシャス的なアレではなく、僕らが布団の中で見るやつです。

夢において僕は様々な体験をするが、目を覚ましてしばらくするとその細部に関しては忘れてしまいがちになる。内容が鮮烈で衝撃的なもので、これは覚えておきたいなと思っていても残念なことに忘れてしまったり。

その一方でしっかりと覚えているものもあるが。僕が「夢」について想起して今すぐに思い浮かんだのはEvery Little Thing の夢。その夢の中で僕はライブに行って、「愛のカケラ」と「キヲク」を聴いた。ひどく感動して目を覚ますと泣いていた。マジで。それまでさほど愛着のなかった二曲はその夢以来お気に入りの曲になったのでとても印象に残っている。ちなみにELTのライブには行ったことがない。いつか行きたいな。

どうしてこう同じ夢でも差が出るのだろうな。覚えていたい気持ちにおいてはそのELTの夢に勝るものも多くあったはずなのでとても不思議に思う。かといって別に科学的に分析しようとかその類の好奇心はないので疑問に思う気持ちのみに留めておく。

昔の人は夢の中で想い人に出会えたならば、「その相手が自分のことを考えていたから夢に現れる」という考えを抱いていたらしい。びっくりするぐらいのプラス思考、自意識過剰もいいところではないか。(実際は当時の呪術的思考によるものらしいが)

僕が思うのは、夢は本人の無意識の願望や、深層心理で考えていることが強く反映されるということ。(これも科学的根拠があるのかないのかは別にいいです)

だから僕は夢の中で、骨抜きにされていた有名女優に出会ったり宝くじに当選するなどの非日常的な経験をするのだ。あの瞬間のカタルシスは凄い。だってそうじゃない?目の前にガッキーとか出てきちゃったら正気じゃいられないでしょ?6億円当たったら舞い上がるでしょ?そんな非日常的な興奮を束の間ではあるものの感じられるのが夢の魅力である。その分目が覚めた時の落胆も大きいが。

書いていて思ったのだが、非日常への没入という意味では芸能人や創作物への熱中とよく似ている。

 

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 ただ夢が違うのは、その没入する対象は僕たち自身が創り出すものであり、それは不確定要素でもあるということである。

考えていることに関連した夢を見ることもあるが、そのすべては思い通りにはいかないし意思にそぐわない夢を見たりする。友人が殺される夢とか。あれは最悪だ。

芸能人や創作物だと、僕たちの中である程度の期待が醸成されていて、その期待に当てはまっている人や物に惹かれていくことが多いのでこれは大きな違いである。ファンの期待に合わせて芸能人の振る舞いや創作物の作風が変わるなどもあるが、基本的には僕たちが選び取っていく側面が強いという認識だ。

確かに夢は不確定だし望み通りの夢を見られればそれは嬉しいけれど、決まっていないからこそ面白い。

予想もつかないものに出会えるなんてのはその最たる例ではないか。

夢は想像力と運によって決まるのです。いい夢見てえ!

ということで書いていたら時間が無くなってしまったので最後は雑に流しましたが夢のお話でした。今回のエントリが「夢」なのは、最近睡眠にはまっているから。そして「こんな夢見たい」と願えば意外と近いもの見られたりします。

早く寝て楽しい夢見たいわー、今日は夢の中でモテます。モテてきます。

昨日はブログを更新しなかった。

本当は毎日更新したいと思っていたのだが。一日一善的なアレね。

外出先にPCを持っていくのを忘れ、まあ家で書けばいいかなんて考えていたのだが、そんな中で友人からの飲みの誘い。金はなかったが断る理由もなく、15時からずっと飲んでいたので書けませんでした。ハイ。言い訳ですね。

とは言え別に義務でやっているわけでもないので、まあいいかと。100%に執着すると却ってダメになるというのが持論なので、テキトーにやって70%くらい、時には50%でもいいじゃないかと。そういう気持ちが大事。

というわけで気を取り直して更新していきましょう。

そんな気持ちの中の雨。今日は雨なのです。

昔は雨が好きだった。野球部時代は練習日ならば実戦形式の練習をせずに済む、試合ならば中止、そんな雨が嬉しくて仕方なかった。僕は野球が嫌いになっていたので。

雨への愛着にはほかにも理由があって、なんとなく落ち着いた気持ちになれるというのも大きかった。今ほどでないにしても当時から考え深さの片鱗は覗いていたのだろうか、静寂に響く雨音に耳を澄まして考え事をするのが好きだった。

きっとそんな風に雨の中で穏やかになっている自分への陶酔もあったかもしれない。困ったナルシシズムだ。ともかく、雨の日は淀んだ空模様とは裏腹に心が躍る、それが僕だった。

しかし、最近は雨が好きではない。

最近は生きることが楽しくて仕方がない。辛いことよりも楽しいことが頭に浮かぶ。

お気に入りの服を着て街に出かけること。馴染みの古着屋に行く、ドトールでコーヒーを飲みながら「源氏物語」を読む、ブログを書く、風景を目に焼き付けながらの散歩、いい飲み屋で酒を飲む。

今挙げたことの中にも考え事をする瞬間って結構あって、じゃあ昔と変わらないじゃないかなんて思われるかもしれないのだが。

確かに違うのは、前を向いているということ。 

 

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 日常の何気ない幸せに気付いた僕はそれを心から愛し、元気を失った時でもそれを頼りに歩いていくことができる。

今の僕はビルの隙間に見える青空のすばらしさに魅せられて日々を生きている。

晴れの日は心を躍らせてくれるものであり、雨の日は自分のネガティブさを増長させるものなのだ。そしてそれは日々を楽しく生きていくうえで困難な壁として立ちはだかる。

だから雨よりも晴れが好き。雨の中で物思いにふける自分自身に理想を投影する必要はなく、その理想にすがらなくても今の僕は生きていけるのだ。

ここまで理屈なんだかよくわからないものをこねくり回してくだくだしく書き連ねてきたが、結局のところ言いたいことはただ一つ。

早く夏になれ!照り付ける太陽と透き通るような青空の素晴らしいあの季節に連れて行ってくれ!

……。売れないCDの安っぽいキャッチコピーか。

 

幸せのカタチ

昨日は一人で酒を飲んでいた。それ自体はいつもと変わらないのだが、昨日はいつにもまして人生について思索してしまった。…それもいつもとあまり変わらないかもしれない。

もともと外飲みしようと思っていたのだけど、なかなか店を決めることができずに一時

間ほど駅の近くを歩いていたのではないかと記憶している。日中も外出していたので、昨日は一日で三万歩近くも歩いてしまった。健康的か。

長いこと歩いていると、自然に物思いにふけってしまう。

店を決めかねて歩いていると、何かのイベントでバーが貸し切りになっていた。幸せそうな空間。幸せってなんなんだ?

恋愛か?結婚か?巨万の富を得ることか?歩き続けても答えは出ず、その後適当に入ったおでん屋でも答えは出ない。

おでん屋を出て再び件のバーを訪れると貸し切っていた団体が解散したようで、一人の客もいなかったので入店した。

白ワインをデカンタで頼み、お通しとエビのフリッターをアテにゆっくりと飲る。

カウンターに座ってワインを飲んでいた僕の脳内は同じことを考えるのみで、取り留めもなくぐるぐると回っている状態だった。

そもそも金曜日の夜に一人で酒を飲むのはどうなんだ。いや、一人で飲むのだって楽しいよ、だけどいつも一人じゃ寂しいよな。今の自分は幸せといえるのか?

子供が「なんで自分は生まれてきたんだろう」って思うようじゃ俺たち大人の意味はないなんて、妻もいない、あまつさえ恋愛経験のない男の考えることじゃないぜ。そもそも一人で酒を煽ってそんなこと考えているのは異常だ。

そんなことを考えているうちに時間は過ぎ、会計を済ませた僕は家路につく。

風呂に入り髪を乾かし、睡眠して目を覚ます。洗濯物を干す。心は晴れやかではない。

今日はマックで本を読むか。そう思って家を出る。その途中友人とLINEをする。

内容は昨日の自分自身に投げかけたそれと同じ。「幸せってなんなんだ」

彼は答える、「美味い飯が食えればそれでいい」。

そのLINEの途中、Twitterのタイムラインで見かけたツイートがやけに気にかかる。

 

フリート横田大先生。

そういえば俺も空を見ていない。上を見上げると雲一つない快晴の空。

ビルの間にも青空は覗いていた。「よく見るとどこからでも青い空が見えるんだな」ただ純粋にそう感じた。

そして「美味い飯が食えればそれでいい」

そうか、幸せは。

自分の心にかかっていた雲が晴れていくかのような爽快感を感じ、一気に自分の考えが紐解かれていくように思えて嬉しくなった。

そうか、幸せはきっと日常の些細なことなんだ。普段僕たちが幸せの代表例として挙げる、「成功」などと呼ぶものはきっと目の前の一瞬を笑顔でいたいとか、楽しく過ごしたいなどといった前向きの意思に裏付けされた小さな行動が重なっているものなのか。

そしてきっとその小さな行動一つ一つが「幸せのカタチ」なのだ。

ビルの隙間に垣間見える青空のように、日常の何気ない部分に僕たちの幸せは潜んでいるのか。それはなかなか気づくことは出来ないが、ふと見つけた瞬間にとても愛おしく感じることができる、その尊さを抱きしめることができる。そういうものなんだ。

なんだかあれこれと難しく考えていたのがバカバカしく思えてしまった。

僕はいつもそうだ、何か考え事をするとその物事の裏側や奥深くを覗き込もうとして、思考の迷路に迷い込む。だから考える自分を辛く感じてしまう。

でもきっとそれでよい。

色々と悩み、その果てに自分が気付く答えは一度通り過ぎたもの、見落としたものだったりする。しかしそれは自分が様々な景色を目に焼き付け、多くの経験をして見出すことのできる領域のものなのだろう。回り道は無駄ではない。

そんなふうにして今日も何気ない「幸せのカタチ」に思いを馳せる。